西野カナ作詞技法と変遷について

 西野カナといえば、日本人として初めて台湾紅白歌合戦にも出演した日本を代表する歌手の一人である。惜しまれつつ2019年2月をもって活動を休止した彼女であるが、彼女の歌手人生の軌跡は何とも不可思議な点が多くある。主に客層が頭悪そうなのであまり考えられてこなかったが、この不可思議な点を「歌詞技法と変遷」という視点から自分なりに考察してみたい。

 

 

本来の姿なのか?

 

・初期の歌詞

 

 西野カナはデビュー頃のインタビューによると、パンクロックやラウドロックが好きな女性であると窺える。ここで、彼女のデビュー曲「I」の一節をご覧頂こう。

 

賭けて コケて泣いて emotion 止められない 何故?

drop in a 未来のocean Ready to this hand 'Escape'SOS!!

 

 

非常に複雑怪奇で抽象的である。文というよりは単語一つ一つを感覚で捉えるべき歌詞だろう。非常にハイセンスだと思う。そしてメロディも変拍子で複雑に作られている。これが彼女の本当の姿なのだと想像される。しかし、この曲はヒットしなかった。この挫折を経て(多分)彼女はビジネスライクな歌手人生を歩み始める。

 

 

・第一次黄金期の歌詞

 

こう見えて大学に通っていた彼女は(多分)考えた。ヒットの法則とは何か。それは「共感」であると。そして、平易な言葉を重ねることで実現できると。その読みは見事に当たった。彼女の第一次黄金期の代表曲ともいうべき「会いたくて会いたくて」を今一度ご覧頂こう。

 

会いたくて会いたくて震える

君想うほど遠く感じて

もう一度二人戻れたら…

届かない想い my heart and feelings

会いたいって願っても会えない

強く想うほど辛くなって

もう一度聞かせて嘘でも

あの日のように“好きだよ”って…

 

 

平易な言葉で、多くの人が体験したことがある感情を見事に表現しているといえよう。この時期の歌詞は粘着的でドロドロしているのが多く思春期の偏差値低い人に刺さりまくったのは間違いないだろう。しかし、この路線は偏差値高い風のイキリ野郎などから様々な批判も浴びた。「薄っぺらい」と。当時、私もその一員だったが、今思えばこの批判は的外れだろう。情報量が少ないのは共感の的を大きくするためだ。漠然とした内容ほど多くの人に当てはまるからである。「会いたくて会いたくて震える」殆どの人は震えた経験はないだろうが、「震える」を暗喩と捉えれば多くの人は共感できるだろうし、いずれにしろ平易な言葉でこれほどまでのインパクトはキャッチコピーとして最優秀だ。

 

 

・転換期

 

こう見えて短大を卒業した彼女は路線変更を迫らせていた。やはり失恋感情を平易な言葉で書き連ねるのに限界はあるし、短大を卒業した大人として流石にどうなんだ?とは考えた筈だ。彼女は大きな賭けに出た。それが2012年発表の「GO FOR IT!!」である。

 

「ずっと前からキミが好きでした」

Oh 精一杯の想いを全部 今すぐ伝えたいの

でも傷つきたくない 嫌われたくない

でも誰かに取られたくもない

勇気を出して

GO! GO! GO FOR IT !!

明日キミに電話しようかな

 

 

これまでの個人的な日記のような内容から、一歩引いたJ-POPらしい応援歌となっている。この時期からネガティブな内容は影を潜めポジティブな前向きな言葉が増えていく。だが、この曲には彼女の軸であったはずの「共感」が少ないように思える。その「共感」は段々と別の形で完成していくこととなる。

 

 

・第二次黄金期の歌詞

 

彼女はいつしか痩せ始め、メイクは薄くなり、声も細く可愛らしさを重視するようになっていった。第一次黄金期のファンと共に大人の女性として成長していった(ように思える)。彼女はかつて自分の軸であった「共感」を別の形で復活させることに成功した。それは「あるあるネタ」である。例えば「もしも運命の人がいるのなら」の一節。

 

かっこよくて爽やかで

私よりも背が高くて

笑顔が素敵で Ah

キリがない理想 結局は

「好きになった人がタイプ」

そういうもんでしょ

 

 

運命の人の予想をしているのだが、色々つらつら書いているが、だいたいモテる人は「かっこよくて爽やかで」「笑顔が素敵」だ。そして、だいたいのカップルは彼女より彼氏の方が「背が高い」じゃないか。以前の彼女は個人的な感情として漠然とした内容を述べることで的を大きくして共感を呼びやすくしていたが、ここでは多くの人が当てはまる例をたくさん表示させることで共感して呼びやすくした。つまり、一つの的を大きくするのではなく、的の数を増やしたのである。

 

 

 活動休止数ヶ月前に彼女は「関ジャム」において、歌詞はアンケート結果を元に制作していると暴露した。計算された「マーケティングの鬼」と化した。ファンは彼女を「カナやん」と呼ぶが、この計算され尽くした楽曲制作もはや現代のカラヤンではないか。

 彼女は惜しまれつつ2019年2月に活動休止を発表した。つまり平成とともに幕を下ろしたのである。彼女こそ平成の歌姫と呼ぶべきではないか。昭和とともに幕を下ろした人といえばBOOWYが挙げられるが、それほどの伝説の人物と言ってもいいはずである。平易な歌詞から批判を浴び続けた彼女であるが、それは全て彼女のファンに寄り添い続けた結果なのだ。非常に聡明で美しい人だと思う。

 しかし、本来は抽象的で暴力的な曲をやりたかったはずの彼女は果たしてこのビジネスがやりたいことだったのだろうか。WANDSYUIのように後年になってからヒット期の活動を否定するような音楽活動を行う人物もいる。けれど、私は彼女が再び表舞台にあがる日は来ないような気がしているのだ。もちろん自由ではあるが個人的にはファンにその輝きの姿だけを残して復帰を選ばないでほしい。平成の山口百恵とは西野カナなのだと私は嘘でもなく信じている。